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5話. 消されなかった名前

Auteur: YuIm
last update Date de publication: 2026-10-01 14:36:35

怜司は、机にそろえた書類をしばらくしてから手に取った。

藤崎陽翔。

先ほどは震えてまともに読めなかった名前を、指でたどる。あの子は確かに、藤崎陽翔と名乗った。

紗季は嘘をついていなかった。

嘘をついていたのは自分だ。姓が違うのだから、自分の子ではないかもしれない。ただ似ているだけかもしれない。

認めてしまえば、失った五年間をどこから引き受ければいいのか、わからなかった。

初めて婚姻届を出した日にも、紗季の名字を書いた紙があった。

「いつか子どもができたら、私の姓も残してあげたいの」

実家がまた結婚式を延期してほしいと言っている。その話を伝えた直後だった。

紗季は、式を急いでほしいとは言わなかった。代わりに婚姻届と、二人の約束を書き留めた紙を並べた。

仕事では藤崎の名前を使い続けること。子どもの名前や育て方は、家の意向に任せず二人で決めること。役所に出す書類ではない。紗季が確かめたかったのは、怜司自身の気持ちだった。

「あとで、親が嫌だと言ったら……」

言葉を濁すと、紗季はペンを置いた。

「今、あなたに聞いてるの。ご両親じゃなくて」

彼は、その約束の下、紗季の名前の隣に自分の名前を書いた。

帰り道に、小さな指輪を二人で選んだ。紗季は紙袋を膝に置き、何度も中をのぞいていた。

あの日だけは、何でも二人で決められる気がしていた。

いつからだったのだろう。

食事の席で母が紗季をけなしても、怜司が謝るのは家に帰ってからだった。仕事で潰れた約束は翌週へ回した。紗季が翌週も待ってくれるから、待てる人なのだと思ってしまった。

レストランで、考える時間がほしいと言ったときもそうだ。

彼女のほうから謝ってほしかった。なぜ紗季が謝らなければならないのかは、考えもしなかった。

そのあと、紗季は二度、離婚について話したいと言った。

一度目には会議があると返し、二度目には、そこまですることかと問い返した。いよいよ書類を目の前にしても、彼女が考え直すと信じていた。

手続きが終わるまで、自分から引き留めたことは一度もなかった。

離婚が成立すると、連絡が途絶えた。

友人たちに事情を話すときでさえ、妻が自分のもとを去った、とは言わなかった。紗季が突然姿を消したのだと言った。

そのほうが、自分が少しだけ卑怯に見えずに済んだから。

書類を折りかけ、怜司は手を止めた。ちょうど、子どもの名前の真ん中に折り目がつくところだった。

手のひらでそっとしわを伸ばし、封筒に収める。

秘書室長からメッセージが届いていた。明日の予定を変更するか、という確認だった。

怜司は、紗季と子どもが見つかったことを実家には知らせないように、と打った。送信の直前、もう一文を付け加える。

『子どもの写真や暮らしに関する情報も、これ以上集めないでください。必要なことは、私が直接聞きます』

それで何が変わるのか、と自分に問いかけ、スマートフォンを置いた。

すぐには何も変わらないことでも、しなければならない。許してもらえそうなことだけ選んでやりたがっていたのは、昔の自分だった。

***

紗季は、眠っている陽翔の枕元から水のコップを片づけた。

靴下を脱ぎかけたまま眠ってしまい、片足だけ裸足になっている。残った靴下をそっと引くと、小さな足の指がきゅっと丸まった。

「ママ……砂のおじさん、また来る?」

「今は来ないよ。おやすみ」

子どもの目が、また閉じた。紗季は布団の端を整え、そのまましばらくベッドのそばに座っていた。

離婚が済んでからも、体がだるい日が続いた。仕事を詰め込みすぎたのだと思っていたが、病院へ行き、そこで妊娠を知った。

家に帰り、一人で日付を数えた夜を、今も覚えている。

怜司に知らせようと、電話を手に取っては置いた夜のことも。

連絡しなかった理由を、一つに絞ることはできない。

子どもを知れば変わってくれるかもしれない。そう期待する自分が嫌だった。変わらなかったときに、また傷つくことはもっと怖かった。

あの家に戻り、頭を下げて頼まなければならない気がして、それも恐ろしかった。

それでも、陽翔の出生届は先延ばしにしなかった。必要な記録を確かめ、子どもの名前を書き、保護者の連絡先には自分の番号を記した。

陽翔が自分と同じ藤崎の姓で暮らせるよう、必要な手続きも済ませた。

それから、その番号に電話が来るたび、出てきたのは自分だった。

怜司が陽翔の存在を知らなかったことも、書類には父親として残っていることも、過ぎた時間を変えてはくれない。

紗季はベッド脇のスタンドを消した。

だからといって、この先、陽翔に何を話すのかまで避け続けるわけにはいかない。今日会ったおじさんは誰なのか、あの子はきっとまた尋ねる。

答える前に、確かめなければならなかった。

鷹宮怜司は、子どもの名前を知りたいだけの人なのか。それとも、その名前につながる日々を引き受けようとする人なのか。

リビングに戻り、明日印刷所へ持っていくデザイン案を開いた。画面の隅には、陽翔のお迎えの時刻が表示されている。

目の前の仕事は、まだ終わっていない。

納品用のファイルを保存してから、子どもが目を覚ましたら声が聞こえるよう、寝室の扉を少しだけ開けておいた。

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